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SLAN's Garden

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無自覚な自己中心性の不快

しゃあ <メール送信>   2005/3/31 (木)   No.1112280419



 自覚がなく、故意も悪意もない、幼稚で子どもじみた(未成熟で脱中心化できていない)自己中心性ほど、やっかいなものはない。

 他者・世界と自分との間に、きちんと境界線(バウンダリー)を引くことができない人間は、いとも簡単に、そうした境界線を、無意識・無自覚のうちに、また、考えなしかつ無神経に越える。

 しかも、本人自身は、自分が、独りよがりで、(防衛機制である)合理化の権化であることに気づかないまま、いっぱし(あるいは、人一倍)気をつかっているつもりだから、余計に始末が悪い。

 自分が気をつかっていること・気をつかっているつもりでいることと、他者に対して、実際に気をつかえているかどうかは、(当たり前のことだが)別物だ。

 自覚的な自己中心性と、無自覚な自己中心性との間には、大きな隔たりがあり、根本的な質的差異が横たわっている。

 コミュニケーションの作法・技法(スキル)、そして、そうしたものを支える感性や想像力が身についていない人間の、無自覚な自己中心性とは、端的に言って、他者を不快にさせる自己中心性だ。

 一方、自覚的な自己中心性とは、個性・属性のうちの一つととらえて、差し支えないだろう。



 けっきょく、無自覚な自己中心性を(特に成人後も)温存している人間とは、他者とのコミュニケーションに対する感性や想像力の、欠如・欠落した人間に他ならない。

 そして、まじめ・誠実で、繊細かつ豊かな感性と想像力を自認する、愚鈍な彼らは、その研ぎ澄まされざる感性と想像力によって、自分が自己中心的・独善的な人間であるとは、つゆほども考えない・疑わない・認めない。

 自分では、感性をみがき、想像力を働かせているつもりでいても、実はみがかれていない・働いていない、あるいは、本人なりにみがいてはいても・働かせてはいても、実は何も見えていない、―――というていたらくである。

 彼らは、俗に言う「空気を読む」ことができず、その結果として、やることなすことがとんちんかんで、自己中心的・独善的なものにならざるを得ない。

 彼らは、本人の願望や意図とは無関係に、他者が存在しない、自分が唯一無二の世界で、傍若無人に振る舞っていると言えるだろう。

 そこにあるのは、自意識過剰な自己満足の、孤閉し内閉した世界だけだ。

 だが、彼ら自身は、かまってくれる・ちやほやしてくれる他者がいることをして、安易に、独善的なコミュニケーション願望を満たし、他者といっぱしのコミュニケーションをなしている錯覚や充足感に、容易に陥る。(Wiredにおいて、容易に実現される馴れ合いなどが、その典型例の一つである)






『ファンタジックチルドレン』放送終了

しゃあ <メール送信>   2005/3/30 (水)   No.1112193127



 『ファンタジックチルドレン』第26話(最終話)「終焉 そして始まり」。

 すばらしい、の一言。

 シリーズ通しての完成度の低さとか、構成のまずさとか、そんなことは、この際どうでもよい。

 こうした作品を見せてもらえると、アニメ・ファン冥利に尽きる。



 静留さん台詞集。


 「ばかは、あんたや」

 「なつきをあんな目ぇにあわせて、これですむ思てますの?」

 「あんたは、うちのもんやから」

            ―――『舞-HiME』第24話「コイ・ハ・タタカイ」より


 「あいかわらず、いきなりどすなぁ」

 「そんなに、うちが嫌い!?」

 「もう離しません。あんたは、うちのもんや」

            ―――『舞-HiME』第25話「運命の刻へ」より







「ぎゃあぎゃあ、やかましいわ」

しゃあ <メール送信>   2005/3/21 (月)   No.1111416134



 ついに本性をあらわした、『舞-HiME』の「ぶぶづけ女」こと静留さん。

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 「下がりよし。あんたの出る幕やありません。
  ぎゃあぎゃあ、やかましいわ」

 「ああ、おかし。みじめやねえ。
  あれで、うちに一矢報いたつもりなんかな」

 「そうや、うちが、ほかのHiMEもなんも、
  なつきのいやなもん、全部倒したるさかいな。
  待っといてな」

            ―――『舞-HiME』第23話「愛情と友情、非情」より




 『魔法少女隊アルス』第40話(最終話)「Destiny 40:希望」。

 あっけなく、エンディングを迎えてしまった感が強い。

 もう少し、余韻を残してもよかったのではないか。

 キャラクター・デザインも魅力的で、ジュヴナイル・テイストたっぷりの設定やストーリーが、うれしくなる作品だった。

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 『BECK』は、ロッキング・オン系リスナーのナイーブなファン願望・幻想を、臆面もなく忠実に具現化したとも言える、もともとリアリティのない荒唐無稽なストーリーだが、(アニメーション版で現在進行中の)野外ロック・フェス出場話になってからは、特にその傾向が強い。

 ここまでリアリティがないと、さすがにしらける。

 (現実のアンダーグラウンド・ミュージック・シーンや、インディーズ・シーンなどを知っている者にとっては、なおさら)

 そもそも、ストーリーの中で、BECKと他のバンドとの間に、その音楽性や存在性において、極端な差別化がなされているが、その差異の根拠がどこにあるのか、まったくわからない。(つまり、ないに等しい)

 はったり抜きで、もっと、等身大の青春バンド・ストーリーに徹すればよいのに‥‥‥。



 棚橋は、亘ちゃんを見習え。

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「トモは、トモは、この人に勝ちたいのだ」

しゃあ <メール送信>   2005/3/18 (金)   No.1111156481



 『GIRLSブラボー second season』。

 「こんなものを見ていてよいのか?」と、自問自答する日々であります。

 ▽ GIRLSブラボー
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 トモカ「歯を食いしばるのだ。
     こんな間違いだらけの大人は、トモが修正してやるのだ」

              ―――『GIRLSブラボー second season』
                   第5話「アルバイトはブラボー!」より




 最近、『スクールランブル』が、悪のり気味でおもしろい。

 沢近さんに、「小さい男ね」と言われたいものだな。

 ▽ スクールランブル
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 よりにもよって、日明兄さんにケンカを売る永田さん。

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人格障害者を相手にするおっくうさ

しゃあ <メール送信>   2005/2/25 (金)   No.1109343058



 現在のところ、比較的軽度の人格障害者はもとより、相当重度の人格障害者ですら、病識を持たず、社会の中に散在・野放し状態のまま、健常者にまぎれて生活しているのが、偽らざる現実である。

 彼らのような、こちら側の世界にいたまま、まさしく「狂っている」としか言いようがない人間(それは、たとえば、かつて「きちがい」と賤称・蔑称され、忌避・差別される精神障害者の代名詞であった統合失調症患者とは、その内実や実相〜あり方において、まったく異質な存在である)が、管理・隔離された環境で、きちんとした治療を受けることもなくである。

 しかも、こうした深刻・劣悪な状況・状態が改善される見込みは、現在のところ皆無である。



 人格障害者に対しては、それが人格の障害である以上、その人物の人格の問題に言及せざるを得ない。

 彼らへの、そうした指摘には、自分に都合よく人権を盾にとった彼らに、「人格攻撃」「誹謗中傷」「侮辱」、果ては「名誉毀損」などと言いがかりをつけられて、非難・糾弾を受ける可能性・危険性が、常につきまとう。

 彼らに関わり、彼らの問題に取り組むことは、とりもなおさず、彼らからの、裏切り、讒言・讒訴、罵倒、脅迫、暴行のような攻撃行動や、転移にさらされ、彼らの問題行動によって、トラブルに巻き込まれることを意味し、精神的・身体的・物理的負担や消耗を強いられ、迷惑や危害を加えられる実害を被らざるを得ない。

 彼らの相手をするのが、面倒・やっかいであり、おっくうになる所以である。

 彼らの問題(特に、その社会的悪影響)を把握・認識している人間ですら、なんら有効な対応策や解決方法を見いだせないまま、文字どおり「触らぬ神にたたりなし」という、手の打ちようがない悲惨な状況を前に、立ちつくしているのが現状である。

 ※人格障害者の問題について、公に発言している治療者は、実際に、患者集団から、はげしい糾弾を受けている。

 ※治療者の多くが、人格障害の治療に取り組もうとしないだけでなく、診断・告知すらしないのも(うつ病などと適当に告知し、薬を適当に処方するだけで、お茶を濁す)、やむを得ない側面はある。

 ※専門領域ではなく、治療対象と見なしていないこともあって、治療者の多くは、人格障害に対する知識や経験に乏しい。(その貧しい実状・実態は、一般人が想像する以上である。人格障害に関して、そうした治療者は、専門家ではなく、単なる素人に過ぎない)







人格障害者には、病識がない 4

しゃあ <メール送信>   2005/2/24 (木)   No.1109256451



 たとえば、欲求不満や対人関係などに起因するストレスに対する耐性の低い、精神が虚弱・脆弱な人間がやるべきことは、ストレスを忌避することではなく、ストレス耐性を身につけることである。

 そして、ストレス耐性を向上させるには、それ相応の修練を積む必要があることは、言うまでもない。

 身体であろうと、精神であろうと、その障害の回復に要するリハビリテーションには、痛み・苦しみを伴うものである。

 特に人格障害の治療の場合、その困難さは、単なるうつ病治療とは桁違い〜格段の差があり、比較にならない。

 彼らが、自助努力とともに、取り組まなければならない回復・成長作業は、自らの未成熟で歪んだ人格の修正・矯正という、困難をきわめ、気が遠くなるような大仕事・難事業である。

 自助努力を怠り、自分の意に染まない・沿わない作業や、それらに伴う痛み・苦しみを嫌い、避けていては(忌避するだけでなく、自己正当化/合理化のために、その必要性を認めず、否定することが、常である)、回復・成長できるはずもなく、いつまでたっても、それらが獲得できないのは、至極当然の帰結である。

 そればかりか‥‥‥。

 自己中心的・独善的で、自分のことしか眼中にない。

 自分の未成熟さや歪み・誤りに気づかず、自分のことがわかっていない。

 自分の気分・感情や欲望・欲求に、際限なく溺れる。

 自分のことは棚に上げて、文句や不平不満ばかりたれる。

 自覚化・直面化を促したり、問題点を指摘すると、即座に反発・反抗し、聞く耳を持たない、

 ―――などなどが、彼らの標準的な言動・振る舞いであり、通例である。



 自己正当化/合理化の屁理屈をこねて反駁することだけは、一人前の人格障害者には、道理や正論は通用せず、馬の耳に念仏である。

 そもそも、認知や価値観・世界観が歪んだ彼らは、もとより道理や正論を身につけておらず、理解などできるはずも、望むべくもない。

 しかも、にもかかわらず本人自身は、いっぱし(ときには、それ以上)の道理や正論を身につけ、理解しているつもりでいるから、さらに、やっかいである。

 「言っても無駄」「話にならない」人間である彼らに対して、どうやって、気づかせ、わからせるか。

 考えただけで、途方に暮れるしかない、気が遠くなる話と言えるだろう。






人格障害者には、病識がない 3

しゃあ <メール送信>   2005/2/24 (木)   No.1109256348



 たとえ、物好きな治療者(治療者の多くは、人格障害の診断も告知もしないのが、常である)から、人格障害であるとの告知を受けるなどして、本人が人格障害を自称していたとしても、それは、文字どおり、あくまでも自称である。

 彼らにとって、告知された診断名〜与えられた病名・障害名は、あくまでも、疾病逃避・疾病利得を獲得するための材料・名目〜口実・道具でしかない。

 うつ病・その他はもとより、人格障害さえ、疾病逃避・疾病利得を獲得するために必要な、精神障害者としての立場を担保する病名・障害名〜自分への有効・有用なレッテル(錦の御旗・印籠)として、記号的に認知し、利用しているだけに過ぎない。

 けっして、人格障害についての正しい知識や理解を持ち、きちんとした病識のもとに、その障害名を受け止めているわけではない。

 そこに、真の意味での病識はない。

 それは、彼らが、人格障害を自称しながら、にもかかわらず、あいもかわらぬ人格障害者然とした生活をあらためようとはせず、回復・成長に向けての自助努力を行おうとしないことからも、明白である。

 それどころか、彼らは、「自分は人格障害だから、問題を起こすのはしかたない」、「まわりの人間は、そうした自分を理解し、まるごと受け入れて、やさしく接するべき」、「でないと、自分はよくならない(自分がよくならないのは、まわりの人間の無理解のせい)」、―――とまで開き直る・居直るのが、常である。

 また、本人自身は、自分の考えることや、やること・なすことが、歪んでおり、見当違いで的はずれ〜誤りであることに気づかずに、自分では「がんばっている」〜自助努力をしているつもりでいることが多い。

 彼らをひとたび甘やかすと、要求はとどまることなく、次々とエスカレートしていき、果ては、「自分がよくなるためには、無条件・無制限の愛情が必要」(これは、彼らの偽らざる本音でもある)などと、臆面もなく言い出す始末である。

 そこにあるのは、無責任性・他者依存性のみであり、人格障害という自分の障害を、自分の問題〜自分自身で解決しなければならない問題として、主体的・自律的に受け止め、向き合おうとする姿勢・態度は一片もなく、きれいさっぱりと、みごとなまでに欠如・欠落している。

 ※ここで言う真の病識とは、(1) 自分が病んでいて、正常ではない〜解決しなければならない問題を抱えていること、―――にとどまらず、(2) その問題の真の核心・根幹を成す、自分の人格の未成熟さ・歪み、及び、その修正・矯正の必要性、―――に対する自覚・認識があることを指す。






人格障害者には、病識がない 2

しゃあ <メール送信>   2005/2/24 (木)   No.1109256312



 たいていの人格障害者は、通俗的価値観にまみれた、権威主義の俗物である。

 彼らは、資格や世俗的地位、あるいは、富や名声といったものを非常に好み、そうしたものに非常に弱い。(おもねるのが常である)

 これは、彼らが、他者との信義則にもとづく関係性といった、形のないもの・目に見えないものを、理解も信用もできないことの反映や影響、つまり、彼らの、他者や世界への了解や信頼感を欠いた、不安定・不確実な人間観・世界観の一端の表出と見ることもできる。

 そこには、何らかの権威(親の代替物)へのしがみつき〜帰属・帰依という形で、没主体的・受動的な保護・庇護と、不安からの逃避を夢見る、狂おしいまでの希求〜幼児的欲望・欲求が隠されている。

 また、安定した自己像が定まらず、自意識過剰で、自己否定感と、それとは裏腹な幼児的誇大感・全能感を抱える、情緒が不安定な彼らの態度は、往々にして、卑屈と尊大、屈従と反抗の両極の間を揺れ動く。



 人格障害者は、自分の望む内容/自分に都合のよい内容の言葉のみを信用や受容し、そうでない言葉は、信用も受容もしない。

 彼らは、自分の望む話/自分に都合のよい話しか聞かない、耳に入らない、―――ということである。

 彼らがときに、身勝手なドクター・ショッピングを繰り返すのも、そのためである。

 こうしたビヘイヴィアは、自己中心的な彼らが、(自覚的・無自覚的/意識的・無意識的を問わず)他者を利用対象としてしか見ていないことの表れでもある。



 他罰性・他責性や攻撃性の有無が、抑うつ症状を訴え、うつ病を自称・詐称する(擬態うつ病の)人格障害者と、通常のうつ病者とをわかつ、決定的相違である。

 うつ病患者として、抗うつ薬を処方され、服用しているにもかかわらず、短期間に緩解・回復することもなく、長期間にわたって、漫然と、通院や抗うつ薬・その他の向精神薬の服用を継続している場合、その患者は、ほぼまちがいなく、うつ病ではなく、人格障害である。

 人格障害は、薬物療法では回復しない。(このような基本的なことさえ、大半の人格障害者は理解していない)






人格障害者には、病識がない 1

しゃあ <メール送信>   2005/2/24 (木)   No.1109256220



 人格障害者には、そもそも、自分が人格障害であるとの自覚・認識〜病識がない。(あるいは、極度に薄い)

 まがりなりにも、治療機関にかかっている場合ですら、彼らは、治療者が適当に告知した診断名(主に、周辺症状に対するもの)を鵜呑みにし、真に受けるとともに、周辺症状の治療にしか関心を示さず、注意を払わない。

 また、処方された薬を服用して、休息をとり、ストレスを避けた生活(=自分の思いどおりになる、自己中心的・独善的で、身勝手な生活)を送れば、それだけで(つまりは、うつ病治療と同様の治療方法で)回復できると、本気で信じ、疑おうとしない。



 人格障害者は、単に病識がないだけではない。

 人格障害は、否認の病でもあり、そのように指摘されても、彼らは、その事実を理解や受容しようとせず、否定・否認し、反発・反抗することはあっても、耳を貸すことも、認めることもない。

 彼らは、自分の人格そのものに、重大な欠陥・瑕疵(未成熟で歪んでいる)があり、問題の真の核心・根幹を成しているとは、けっして考えない・考えようとはしない。

 試みに、彼らに、たとえば、DSM-IVにおいて定義された、人格障害についての診断基準を提示し、どう思うか訊ねたとしよう。

 ほぼ全員が、異口同音に、「自分は、この診断基準に当てはまらないので、人格障害ではない」と、みごとなまでの画一ぶりで口を揃え、考えなしに軽々しく、断言・一蹴してはばからない。

 こうした反応は、「あなたが人格障害ではないのなら、いったい誰が人格障害なのだ」と言うしかない、人格障害であることが一目瞭然の、絵に描いたような典型的人格障害者でさえ、例外ではない。

 つまり、彼らは、自分のことが、まるでわかっていない・わからないのである。

 しかも、にもかかわらず本人自身は、困ったことに、わかっているつもりでいるから、さらにやっかいである。

 彼らは、自分が、わかっていないことさえ、わかっていない、―――ということである。

 治療機関にかかっている場合であれば。さらに、「医師の診断は、○○(人格障害ではない診断名)」と胸を張り、治療者の告知を錦の御旗にして、人格障害であることを、言下に否定・否認する。

 そればかりか、人格障害者扱いされたことに対する不満や不快、憤懣を隠さず、あらわにすることや、非難してくることも、めずらしいことではない。






もっと自分を疑え!

しゃあ <メール送信>   2005/2/20 (日)   No.1108910539



 人格障害者は、自分や世界を、客観的に分析・検証し、把握・相対化できる、自己批評・自己対象化能力や現実検討・現実認識能力を持たない。

 また、そうした自分を理解・認知できず、その自覚・認識すらも、持てない。(つまり、そうした自分に、気づくことさえできない)

 それどころか、彼らは、自分の期待・願望や欲望・欲求に沿って、多くは、自分でも無意識・無自覚のうちに、自分の都合のよいように、情報操作(自分に都合のよい情報だけ選択・採用、都合の悪い情報は遮断・排除)し、現実を歪曲・捏造・隠蔽・排斥する。

 たとえて言うならば、彼らは、呼吸をするように、ごく自然に嘘をつき、自分でも、その嘘に気づかない。

 これらは、未成熟な彼らの、歪んだ自己愛の発現・発露であり、歪んだ防衛機制・適応機制から生じる現象である。

 ※他者に対する、対人操作・人間関係の操作(巻き込む、振り回すなど)も、同様の手口で行われるので、注意が必要である。

 これでは、自分のさまざまな歪み・誤りを修正・矯正する、制御・補正回路/機構を、自己の内部に持ちようがない。

 だからこそ、彼らは、幼児的な誇大感・全能感に支配されたまま、自己中心性から脱却〜脱中心化できず、自分の気分・感情や欲望・欲求に忠実に、愚行を繰り返し続ける〜稚拙な快楽に耽溺し、分をわきまえない、身のほど知らずな大口を、平然とたたけるのである。(それとも気づかず、無自覚に)

 人格障害者は、未成熟で、認知・思考が歪んでおり、そうした人間の判断や選択、自己分析ほど、あてにならないものはない。

 人格障害者の思い込みや確信など、単なる妄信に過ぎず、なんの価値もないばかりか、道を誤り、自らを、ますます回復・成長から遠ざけるものでしかない。

 ―――という厳然たる自明の現実を、彼らはまず、理解し、受容しなければならない。

 もし、そのように、きちんとした病識が本人にあれば、少なくとも、それらに、何の信頼性・信憑性もないことを了解し、自分の正しさを妄信するなどという大愚を冒すことはなくなる。

 自覚化・直面化に向けての第一歩である、そうした病識を持つことなく、自分の人格の未成熟さ・歪みを、個性・独自性〜差異の問題にすりかえ、自己同一性(アイデンティティ)と強弁して、開き直る。

 ―――といった自己正当化/合理化を図っているかぎり、回復も成長もないことは、言うまでもない。

 ※こうした、デファクト・スタンダードとも言える、旧来からの、自己同一性を盾にとった合理化手法のパターン(これは、とりもなおさず、彼らには、単なる差異と、未成熟さ・歪みの違いさえ、区別・判別し、理解できないことを物語っている)に加えて、最近の傾向としては、各種の発達障害(特に、高機能自閉症やアスペルガー症候群などの広汎性発達障害)まで持ち出して、自己正当化/合理化を図ることさえ、めずらしいことではない。



 もっと、自分を疑い、自分を問うことだ。

 自分が、人格障害であることを(つまり、「頭がおかしい」ということを)、常に念頭に置き、片時も忘れるな。

 あなた自身が、十分と感じるレベル(それは、まったく不十分なものに過ぎない)の、少なくとも100倍の質と量で、自己凝視し、内省・省察せよ。

 そうすれば、その副産物として、快楽に耽溺し、大口をたたいている暇などは、結果的になくなる。

 換言すれば、快楽に耽溺し、大口をたたいているあいだは、内省・省察が不十分ということに、他ならない。

 もちろん、あなた自身では、自分が快楽に耽溺し、大口をたたいているという自覚・認識を持つことすら、困難である。

 したがって、そうした指摘に、謙虚に耳を傾け、自分ではすぐに納得・得心できなくても、がまんして甘受・受容するしかない。

 真の内省・省察は、そうしたところから、はじまる(そうしたところからしか、はじまらない)のであり、そのきっかけや材料を与えてもらったことを感謝しこそすれ、反発・反抗などしてはならない。

 きびしい言葉(「きびしい」からは、ほど遠い言葉で、簡単に切れているようでは、話にならない)も、言ってもらえるうちが花であり、言っても無駄と思われたら、それまでであることを、肝に銘じ、けっして忘れてはならない。

 「寝言・戯言は、もういい」「まずは、言われたことをやれ」。

 ―――と一喝される前に、自ら率先して、死にものぐるいで、自助努力(まずは、徹底した内省・省察)をしてみせろ。

 ※まずは、こうしたハードルを乗り越えられるかどうかが、彼らの回復・成長の可能性を、大きく左右する。

 ※言われたことを、(がまんして)きちんとやること・やれるようになること。

 ※自分が、利己的な対人関係しか持ち得ない人間であることを、自覚・認識すること。

 ※あなたが、誰かに強い(過度の)好感や共感を抱いた場合は、相手も、人格障害者である可能性が高い。

 ※病識がなく、自助努力する意志のない人格障害者と、関わってはいけない。

 ※Wiredで、コミュニケーションを求めてはいけない。Wiredでの馴れ合い=インターネット・コミュニティでの似非コミュニケーションからは、距離を置く/身を引くこと。

 (もちろん、これは、Wiredでのコミュニケーションの可能性全般を、否定するものではない。あくまでも、人格障害者は、ということである)

 ※自分の成すべきことの優先順位(プライオリティ)を、見誤ってはいけない。








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