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SLAN's Garden

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『ハートブレイク前夜』 (3)

ウユウ <メール送信>   2004/4/23 (金)   No.1083696465



 話は少し替わります。

ぽか> 私はweb上に必要以上のプライバシーを曝したくないのです。
ぽか> 個人が特定されたくもありません。
ぽか> 家族が嫌な思いをすることは避けたいから,です。

 ぽかさんは、今でこそ自分のプライバシーを晒したくない と書いていますが、
 かってはこの掲示板に自身のプライバシーにまつわることを書いていました。
 なぜでしょうか?(どこでもいいから吐き出したかった というのもあるでしょうが)
 それは、この掲示板が好きだったから、この掲示板に集う人々が好きだったからじゃないですか?
 (それは特定の個人だったかもしれないですが)
 好きだったから居心地がよかった。
 そして、いつしか、信頼した。
 信頼して、自分の苦しい胸のうちを知ってもらいたくなった。
 心を開きたいと思うようになった。
 ‘受け入れて’もらいたいと思うようになった。
 だから、ぽかさんは自分のプライバシーを書いたんです。

 話は戻ります。
 信頼し、受け入れてもらいたいと思った、この掲示板でしたが、
 ‘あるいきさつ’によって、距離ができてしまい、ぽかさんはしばらく訪れないことになってしまいました。
 それは自分の責任であり、仕方のないことでした。
 年も押し迫ったある日、ぽかさんは久しぶりにこの掲示板を訪れました。
 投稿文に目を通しながら、ぽかさんは、自分の名前を探します。
 「自分が話題に上がっていないだろうか?」
 そこに、田中真紀子になぞらえられた、‘ある人物’に関する上山さんの書き込みがありました。

上山> 矢幡洋『アイドル政治家症候群』という本と、大嶽秀夫『日本型ポピュリズム』という本を読みました。どちらにも田中真紀子のことが
上山> 書いてあったのですが、浮かんでくる人物像は以下のようなものでした。
上山> ・喋りが支離滅裂で自分の中で整理が付いておらず、話題も逸れがちで何を話しているのか分からない。論理的発話が出来ない。
上山> ・他人に対して居丈高であり、かつ馴れ馴れしい。
上山> ・下らない毒舌の弁にだけは長けている。
上山> ・自分に都合のいい人間関係の築き方しかしない(一方的に電話をかけまくったり、など)。
上山> ・その反面直接的に反論するとすぐに怯んでしまう。
上山> こうした特質を持っている人を、私も即座に一人思い浮かべました。
上山> とはいっても知り合いではあれど「友達」でもなんでもない「全くの赤の他人」ですけど。

 上山さんのこの書き込みは、攻撃です。
 この場合の攻撃は、故意に人に危害を加えることで、身体的暴力だけではなく、言葉:書き込み による心理的なものも含みます。
上山> 人を殴ることは殴った本人の意思がないと出来ません。
上山> だから幾ら抗弁しようと、その人間が第三者から見て能動的に、極めて理不尽な暴力を振るったという事実は消えません。
上山> 人を心理的に傷つけることはそれとは違い、故意でなくとも起こり得ることです。
 「心理的に危害を加えようとする意図のある文章を書き込む」というのは明確に故意です。だから、今回の場合、これは他者への攻撃です。

上山>  かつてここに来訪していた方と同じ轍を踏みつつあるように思えてきたのです。

 ぽかさんは「かってここに来訪していた‘ある人物’とは、自分のことに違いない。確認するまでもない」と‘読解’しました。
 僕は、「これって誰のことですか?」と上山さんに聞いていたんですが、
 その問いかけに上山さんが答えるのを遮断する形で、ぽかさんは書き込みをしました。
 「ぽかさんは、いたたまれなかったのではないか」と思います。
 自分の好きな掲示板に、自分に対する悪意が、(誰に対するものか、あいまいなまま)不定形に存在することが、我慢ならなかったのではないかと。

 「自分に対する」書き込みを目にしたとき、少なからず、ぽかさんは“傷ついた”。
 “いやな感じ”がした。“ひどいな”と思った。
 前後になんの脈絡もなく書き込まれている。(♯実際は脈絡があるのですが)
 いくら自分の蒔いた種とはいえ、あの、田中真紀子と並べるなんて。
 並べた上で、こきおろされている。これは中傷だ。
 自分が不在なのをいいことに。卑怯だ。一方的に。
 少し腹が立った。少し感情的になった。少し「反発」したくなった。少しはねかえしたくなった。少し瞬間沸騰しかけた。少し感情的暴発しかけた。
 …でも、引き受けようと思った。
 自分の責任だ と。
 相手にも責任はあるが、自分には問題点があり、罪悪感もある。
 こうまで、書かせたのは、自分のやったことが原因なんだと。
 全体をかぶって、耐えようと思った。腹立ちを納めた。
 そして、“謝罪”しようと思った。“謝罪し続けよう”と思った。
 “謝罪”は上山さんに対してのものだけでない。
 この掲示板に集う人々に、その姿勢を見せようと思った。
 見せることで、それをきっかけにして、できるならもう一度‘受け入れて’もらいたいと思った。

 ただ、その時、少し、精神的に‘優位’に立つ必要があった。
 自分は“謝罪”することが‘できる’「オトナなのだ」と。
 ‘優位’に立つことによって、自分の「プライド」を保全しようと思った。

 「私が上山さんに与えた傷の深さを悔悟させてくれます」
 「上山さんは深く傷ついてしまったんですね。あの私に対する中傷の書き込みは、読むと、それだけ私があなたを深く傷つけたということを、
 私に思い出させて、後悔させます。」

 ぽかさんの心理の流れは、そういうものだったのではないか と想像します。

 ひたすら謝罪すること、…しかし、それは抑圧です。
 我慢すること、耐えること は場合によってもちろん必要なのですが、
 周囲の関係性に悪影響を及ぼすレベルになってしまっていたとしたら、問題です。
 不自然な抑圧が、なぜ起きてしまうのか。
 自分を見つめて、考えてみてください。






『ハートブレイク前夜』 (2)

ウユウ <メール送信>   2004/4/23 (金)   No.1083696183



 一方、ぽかさんの側から考えてみます。
 僕は、
> 相手の心情に配慮しているように見えますが、これは相手を対等以下に見ている心理の現れだと思います。
 と書きましたが、これは、ぽかさんが、上山さんを見下している、
 自覚的に、意識的に、相手を見下している という意味ではないです。

ウユウ> ぽかさんは、明らかに目上の相手に対して、「私が与えた傷の深さ…」という文章を付けますか?
ウユウ> たとえば校長に対して暴言を吐いたとして、それを謝罪するとき、「傷つけてしまって申し訳ありませんでした」と言いますか?
ウユウ> 相手の心情に配慮しているように見えますが、これは相手を対等以下に見ている心理の現れだと思います。
ぽか> 先に書いた通り,今は暴言を吐かれるですが,相手が目上であろうと,
ぽか> 私は「気付かずに,傷つけるような発言してしまい,申し訳ありませんでした。」ぽか> 位は言ってきましたし,これからも言います。

 僕は「校長に対して暴言を吐いたとして」とたとえましたが、いきがかり上の、単なる暴言ぐらいでは、相手は傷つくことはないと思います。
 それはぽかさんも「気付かずに,傷つけるような発言してしまい…」と書いているように、理解されていると思います。
 相手の精神的な弱点を、それこそ抉るような発言、行為をしなければ、まあ、当たり前の大人を「深く傷つける」ことはできないでしょう。
 (長期にわたるなら、別です)

 ここで「たとえ話」ですが、ある既婚男性が、子供を事故で亡くされたとします。職場でも、それは周知の事実であり、周囲の人間はそれなりに
 気遣っていました。一年後、彼はようやく立ち直り、以前と変わらない様子になりました。そこに、その事実をつい忘れてしまった人物が、
 彼に対し、悪気無く、無邪気に、大声で、「お子さんは元気ですか?うちの娘も今年小学校入学ですよ。たしか一歳違いでしたよね?これ、卒園式の
 スナップ写真です。どうです?かわいいでしょう?いやあ、子供が成長するのって早いもんですなあ。今から嫁にやるのが心配ですよ。ずっと手元に
 いてほしいなあ。でも、結婚式のスピーチなんて言おうかなあ。気が早いですか?」という発言を、公然としてしまったとします。その場の雰囲気は
 一瞬に凍り付くでしょう。発言は、同僚の心を深く傷つけることができると思います。その時、忘れてしまったこと そのものの
 「うかつさ、鈍感さ」が まず責められると思います。そしてさらに公然と「傷つけてしまってごめんなさい」と謝罪したとしたら、その謝罪の仕方も
 責められるでしょう。
 [注:この「たとえ」は「傷つける」や「深く傷つける」を説明するためのもので、それ以上の意味はないです。]

 明らかに目上でない、つまり同僚の中の、年齢の近い先輩や同輩、後輩なら、プライベートな関係が成立している場合もありえます。すると、
 先の例とは別に、「お、傷ついたの?」とか、「傷ついちゃったんだ」とか、言い合うこともあるでしょう。そういう場合を除外する意図で、
 「校長」を例にあげました。

 子供を亡くした同僚に対し、「お子さんは元気ですか?」などという、そんな酷いことは言わない。私はそれほどに無神経で鈍感な人間じゃない と
 ぽかさんは自負しておられると思います。ありえない と。つまりは、ぽかさんは、今回、それほどにはひどいことをしていない、
 上山さんに対して、明らかに残酷なことをしたとは、思っていないんです。

ぽか> 確かに暴力的な心情がそこにあった。
ぽか> それを認められなかった。
ぽか> それほどまでに,自分を見失っていた。
ぽか> 感情的に昂ぶっていた。
ぽか> そして,上山さんに犠牲を求めた。

ぽか> 上山さんに対し,言い掛かり的な議論を吹きかけ「暴力」を行使したこと
ぽか> そして,そのことを認めようとしなかったこと
ぽか> 改善しようとしなかったこと

 暴力的だった。相手(上山さん)を利用した …という罪悪感はあるにせよ、やったことそのものについては、常識に照らしても、
 そう酷いことをしたとは思ってはいません。「気づかずにした発言」と同じレベルの「暴力的行為」で傷つく上山さんの方も悪いと思っているんです。

 事実、ぽかさんは、Webの掲示板に書き込みをしただけです。マナーに多少抵触したのかもしれませんが、それでも「議論」しただけだし、
 ヒートアップしたのはそれこそ「お互い様」です。一般的に、掲示板で議論していて、相手がまったく自分の文章を読んでなくて、
 単に絡んでいるだけだと判断したら、それまでの仲が多少あったにせよ、早々に打ち切ればいいし、そういう手段はいくらでもとれるはずですから。
 対応し続けて、ダメージを受けたなら、受けた側の責任もあります。

 人生においては、一方的に自分の側に非があって、いくら相手から罵詈雑言を浴びせられても、謝罪し続けなければならないこともあるでしょう。
 しかし、今回はそうではない。相手にも応分の責任がある。ぽかさん自身そう思っている。にもかかわらず、ぽかさんは謝罪し続けようとした。
 なぜでしょうか。
 それには別の意図があると思います。それは、頭を下げ続けることによって、その姿勢を見せることによって、別の相手に赦してもらいたい という
 意図です。ぽかさんは、もう一度受け入れてもらいたかったんです。






『ハートブレイク前夜』 (1)

ウユウ <メール送信>   2004/4/23 (金)   No.1083695863



 こんにちは。春らんまん☆☆ですなあ。きのうなんか、暑かったっすよ。

 遅くなりました。レスです。
 正直言って僕には荷が重いです。
 でも、僕が質問したことや、それなりに大切に思える問題が、宙ぶらりんになっていて、それは不親切でもあるし、居心地も悪い… ので、書きます。
 読むと、少しストレスがかかってしまうかもしれません。

ぽか> 不適切な比喩は混乱の元
 これは、ぽかさんがなにを言っているのかというと、今回の場合になぞらえてみるなら、
 「あなたの不適切な比喩は、私の混乱の元です」つまり、「オレが混乱したのは、オマエの比喩のせいだ」と書いているのですよ。
 被害者意識的だし、責任転嫁ではないでしょうか。
 揺るぎない自分というものがあれば、混乱することはないし、
 他人のせいにしたら、そういった「簡単に混乱してしまう自分」という問題から、目をそむけることになります。

ぽか> 自分の不適切な比喩を棚に上げて,相手の読解力を攻める。
ぽか> で,本題に入れず嫌気がさすとなじる。
 では、 本題から入ります。

ぽか> 上山さんが,田中真紀子氏に対する評価を引用された部分も,
ぽか> 私が上山さんに与えた傷の深さを悔悟させてくれます。
ぽか> お詫びの言葉もありません。ごめんなさい。
ウユウ> ぽかさんは、明らかに目上の相手に対して、「私が与えた傷の深さ…」という文章を付けますか?
ウユウ> たとえば校長に対して暴言を吐いたとして、それを謝罪するとき、「傷つけてしまって申し訳ありませんでした」と言いますか?
ウユウ> 相手の心情に配慮しているように見えますが、これは相手を対等以下に見ている心理の現れだと思います。
ぽか> 先に書いた通り,今は暴言を吐かれるですが,相手が目上であろうと,
ぽか> 私は「気付かずに,傷つけるような発言してしまい,申し訳ありませんでした。」
ぽか> 位は言ってきましたし,これからも言います。

 ぽかさんが、今まで本当に言ってきたとしたなら、やはり言葉の使い方に対する配慮が欠けているように思います。
 それを受け取る相手はどう感じるのでしょうか。
 相手の立場から、相手の立場に立って想像してみないと、わからないと思います。
 「傷つける」「(相手の)心に傷をつける」よりも、「傷つけられる」「深く(自分の)心を傷つけられる」として、想像してみてください。
 「傷つけられた心」 …どういう心の状態でしょうか。
 痛くて、苦しくて、哀しくて、つらいのではないですか。
 なるべくなら味わいたくないはずです。
 まず、「自分が傷ついた」と認めることは、ひとつの勇気が必要です。自覚することも、誰かに打ち明けることも。
 その程度のことで傷ついたのかと、「弱ぁ〜」と笑われるかもしれないし、情けないと言われるかもしれないし、
 下手をするとさらにその弱点を攻撃されるかもしれない。
 できれば隠したい。人目にはさらしたくない。
 誰かに「傷ついた」と打ち明けることは、精神的な弱味を見せることであり、心を許した相手、つまり信頼関係を前提とした告白なんです。
 また、自分を「傷つけた」相手に対しては、どういう感情を持つでしょうか。
 その感情が、正当なものかどうかはともかく、恨み、憎しみ、怒り…等、
 場合によっては、傷ついた分だけの強さの憎悪、怨念を抱いているかもしれません。
 かなりネガティヴな感情に支配されてしまって、そこから脱却するには、相応の時間と努力が必要です。
 そんな時、公然とこんな風に自分を「傷つけた」、不愉快な当の本人から言われたらどうでしょうか。
 「(あなたのあの書き込みは)私があなたに与えた傷の深さを悔悟させてくれます。お詫びの言葉もありません。ごめんなさい」
 つまり
 「あなたは深く傷ついてしまっていたんですね。あの(ひどい)私に対する書き込みは、読むと、それだけ私があなたを深く傷つけたということを、
 私に思い出させて、後悔させます。お詫びの言葉もありません。ごめんなさい」
 「ごめんなさい」とは裏腹に、その償いとしては、なかなか相手に伝わりにくいし、受け入れられにくいと思います。すごく訝しいのです。
 謝罪しようと思うなら、最大限誠実に、相手の立場から、相手のことを考える必要があります。
 深く傷つけたことを悔いて、そのことを謝罪するのなら、なおさらです。






まがい物の理解者

ちびた <メール送信>   2004/4/15 (木)   No.1083695552



 お久しぶりです。


 ○境界例と自己愛の障害からの回復
  [Link]
  ●誰も私のことを分かってくれない(上)
   [Link]

  より、抜粋

 <しかし、人はそう簡単に絶望しきれるものではありません。「オレは、もうダメなんだ」と思っても、それでも、すがりつく物を必死に求めたりするのです。そして、裏切らずに私のことを分かってくれるような、まがい物の理解者を見つけだしたりするのです。たとえば、焼酎を胃に流し込めば、酔いが回ってきて、沈んだ心が少しは癒されるのです>



 自分のこころの状態を見ることができず、見ようともせず、「癒されるなあ」と感じることをするのが、「いいこと」だと思ってしまうのは、キケンですね。

 まがい物の理解者でも、いないよりマシ?

 それって、何だか変だなあ。






伯爵夫人は、碇ゲンドウだったのか

しゃあ <メール送信>   2004/4/5 (月)   No.1083695221



 K-1やPRIDEなど、(いわゆる)リアル・ファイトの大会が、間断なく次々と開催されるとともに、テレビでも放送され、人気を博している。

 各種メディアでの扱いなども含め、その隆盛ぶりを見るにつけ、「格闘技も市民権を得たのだなあ」と、一抹のさびしさを覚えつつ、しみじみ。

 一格闘技ファンとして、特にバーリ・トゥード系リアル・ファイトに飢えていた、一昔前の寒々しい状況を考えると、隔世の感がある。



 ブラッタリア「あ、風祭さんだぁ〜」。

 おまえたちは、素子さんになつくタチコマか?

 ―――などと、つっこみを入れながら見ていた『ギルガメッシュ』は、期待以上の終わり方だった。

 最後まで、身もふたもなく、救いのない物語を貫徹したところがよい。

 (惜しまれるのは、映像も含めた、完成度の低さ)

 最終話で、真の主人公が、竜也でも紀世子でもなく、伯爵夫人であったことも、明らかになったと言えるだろう。

 伯爵夫人が、絶望的に追い求めたものは、碇ゲンドウのそれと、同種のものだったのかもしれない。

 ▽ ギルガメッシュ
   [Link] [Link]



 『デ・ジ・キャラットにょ』の放送が、終わってしまった。

 『パパにはヒ・ミ・ツ』や『I LOVE! オリバー』も。

 ▽ デ・ジ・キャラットにょ
   [Link]

 ▽ パパにはヒ・ミ・ツ
   [Link]

 ▽ I LOVE! オリバー
   [Link]



 ヘラクレス・ヘルナンデス、死す。

 [Link]






回復・成長へのメルクマール(メモ6)

しゃあ <メール送信>   2004/3/30 (火)   No.1083694992



 回復・成長へ向かう道程は、自分に甘く、怠惰でこざかしいCPTSD〜人格障害者たちの期待・願望に反して、気が遠くなるほど長く、険しい。

 しかし、その道程の厳しさへの忍耐、地を這うような、苦しく地道な自助努力の向こう側にしか、回復・成長はないこともまた、見まがうことなき現実なのだ。

 他力本願で、嗜癖/依存症をはじめとする、目先のさまざまな現実逃避行動に見境なく飛びつき・しがみつき・溺れ、回避・否認に汲々とし、自己正当化/合理化にばかり長け、自己弁護に余念がない。

 ―――などの、これまでの自分の不適切で誤った生き方・あり方、姿勢・態度を質し〜正し、あらためないかぎり、その道を、先に進むことはできない。

 また、そうした忍耐と自助努力を行わない人間に対しては、(口先ではどうあれ)回復・成長する意志がないと見なさざるを得ない。

 虚勢を張るばかりで、被害者意識しか持ち得ず、疾病逃避や疾病利得、誇大感・全能感に、無自覚なまま溺れるなど、もってのほかだ。

 自分が抱える問題や病を自覚化し、現実の自分と向き合い、直面化/自己対象化をはじめとする、さまざまな自助努力を行わないかぎり、回復・成長はない。

 自分を救えるのは、自分だけだ。

 回復・成長のために、何が必要かについて、こうした基本的かつ本質的なことがらに気づくことができるかどうかが、回復・成長へ向かう人間と、そうでない人間との間を分かつ、最初の分水線であり、指標/メルクマールと言えるだろう。

 「知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ」。(箴言 4: 7)



 自助グループとは名ばかりの、共依存集団の形成・運営など、いかがわしい共依存性ボランティア活動に勤しむ人間たちが、Real world/Wiredを問わず、はびこっている。

 彼らが、ことさらに口にし、想定・目標としているらしき「回復」状態、あるいは「回復」過程なるものなど、もちろん、回復・成長と呼べるような代物では、さらさらない。

 まったく無縁でほど遠いだけでなく、勘違い・的はずれもはなはだしい、まやかしのまがいものにすぎない。

 そうした団体・グループに参加することは、回復・成長を妨げ、病の固定化・悪化をもたらす行為でしかなく、百害あって一利なしであることを、警告の意味を込めて、きびしく指摘しておく。






回復・成長へのメルクマール(メモ5)

しゃあ <メール送信>   2004/3/28 (日)   No.1083694739



 自分がわかっていないことさえ「わかっていない」にもかかわらず、「わかっている」つもりになる。

 すべきこと・できることさえ「していない」にもかかわらず、「している」つもりになる。

 (「考えている」つもり。「努力している」つもり。「進歩している」つもり。「正しい」つもり。etc.)

 こうした、数々の「つもり」=誤った思い込みは、あくまで、自分が抱いている誇大感・全能感に添った、ご都合主義で的はずれなものにすぎない。

 そして、こうした誤った思い込みが幾重にも積み重なり、蓄積されて、認知・思考や発言・行動の歪みが、さらに生成・助長される。

 病の表徴・証徴でもあるそれらを、疑問を抱くことなく放置・温存し、自覚化できないうちは、何一つ変わらず、何一つはじまることはない。

 しかも、往々にして本人自身は、肥大化し歪んだ、幼稚で浅薄・陳腐、そして過剰な、自尊心・自負心〜うぬぼれや自意識などから、自分の勘違い〜誤謬・錯誤、身のほど知らずな過信・妄信に、絶望的・致命的なまでに、気づかない・気づくことができない。

 精神を病んだ人間が、きちんとした病識を持てず、自分の認知・思考や発言・行動(たとえば、自分の判断・選択)の正当性・合理性を信用し、主張するとは、いかなる意味を持つ、いかなる行為であり、また、いかなる結果をもたらすのか?

 答は明白であり、言をまたない。



 「わかっている」つもり・「している」つもりで、自分の頭の悪さ・能力の低さ(加えて、性根の卑しさ・滑稽さ)を自覚化しない・できない人間にかぎって、権威主義で上昇志向・権力志向が強い。

 たとえば、その典型として、顕著に見受けるのが、学歴・資格=頭のよさ・能力の高さの証しなどという噴飯ものの通俗的価値観・信仰を真に受け、本気で信じている事例だ。(そうした価値観・信仰の保持自体が、頭の悪さ・能力の低さの証しに他ならない)

 そのため、学歴・資格の取得に拘泥〜固執・妄執し、自分の頭の悪さ・能力の低さを、学歴・資格に依拠して、否認しようとする。(あるいは反対に、「人並み」の学歴・資格を持たないと、自分を過剰に卑下し、卑屈になる)

 見栄・虚栄心の強さは、外部(他者や社会)からの承認願望の裏返しであり、自尊感情や自己評価が、実は低く、外部依存的である証拠だ。






回復・成長へのメルクマール(メモ4)

しゃあ <メール送信>   2004/3/20 (土)   No.1083694252



 そもそも、意志や覚悟どころか、知識や方法論すらも欠如し、何が問題で、何をどのようにすればよいのかがわかっていない(しかも、自分の気分・感情〜情動や感覚、欲望・欲求に固執・妄執する)人間が、必要かつ適切・相応な自助努力など、できるわけがない。

 せいぜい、不適切で誤った自己治療の試み(さまざまな嗜癖行動/自己破壊行動 etc.)など、歪んだ認知・思考や発言・行動がループする、出口のない迷路に陥ってさまよい、不毛な堂々巡りを繰り返すことになるだけだ。

 精神や思考が硬直していて、学習能力が低く、知識や経験(特に失敗)から学ばないものは、同じ過ちを繰り返す。

 自分が抱える問題〜病を自覚化せず、回避・否認し、直面化しない(自分自身の問題として、受け止めない・受け止めることができない)。

 他者の言動に対しても、自己中心的・独善的に、自分の都合のよいようにしか、聞かない・聞くことができない/見ない・見ることができない。

 たとえば、読解力が極度に貧困で、他者の発言や文章を、その全体や真意は、まったく理解しない・できないにもかかわらず、なんの疑問もなく平然と、自分の都合のよいように、恣意的に解釈(自分勝手に曲解・歪曲)して、はばからない。

 都合の悪い話・気に入らない話・聞きたくない話には、耳を貸さず、まるで目に入らないかのように、無視する。

 本人自身は、まともにいっぱしの返答・反論をしているつもりで、実際には、その体をなしていない、的はずれでとんちんかんな内容(暴論、屁理屈、論理・論点のすり替え、揚げ足とり、絡み、逆上 etc.)に終始し、醜態をさらしてしまうのも、そのためだ。

 自分の非を、認めない。

 自分のことは棚に上げて、他者をあげつらい、非難する。

 問題点を指摘して、まずは自覚化させようとしても、聞く耳を持たない。

 虚勢を張り、反発したり、さらには攻撃したりするだけだ。

 正鵠を射た指摘に、謙虚に耳を傾けるなど、自分が抱える問題〜病を自覚化しようとせず、回避・否認し、反発・攻撃するばかりの人間は、相手にするだけ徒労であり、時間の無駄だ。

 そして、そうした心性・心情を支えるのが、歪んだ自己愛や虚栄心だ。

 認知・思考や発言・行動の歪みだけでなく、心の中にインストールされた、歪んだ自己愛や虚栄心、防衛機制プログラム〜回避・否認システムに対しても、自覚化しなければならない。






回復・成長へのメルクマール(メモ3)

しゃあ <メール送信>   2004/3/18 (木)   No.1083693968



 自分の気分・感情〜情動や感覚を疑うことなく妄信し、そのおもむくままに、目先の似非癒しや依存行為にかまけるなど、自らの愚かしい欲望・欲求に忠実に行動しているかぎり、回復・成長に向けての作業への取り組みは、なし得ない。

 現在の自分の気分・感情〜情動や感覚を信用せず、徹底的に自分を疑い、自分を問うことだ。

 自分を甘やかすだけの、愚にもつかない寝言・戯言を弄している暇などは、ない。

 病を表徴・証徴する、自分の認知・思考や発言・行動の歪みを自覚化できなければ、何もはじまらないのだ。

 自分が抱える問題〜病を自覚化し、「このままでは、自分はどうにもならない」という、(口先だけではない)真に切実な切迫感・危機感の有無が、回復・成長への可能性を、大きく左右する。

 本当に助かりたいのであれば、死にものぐるいで、必要かつ適切・相応な自助努力をするしかないし、また、しようとするだろう。

 (認知・思考や発言・行動が歪んでいる)現実の自分と向き合い、自分の病や自分の存在に対して(合わせて、病を生み出す社会の現実に対しても)、自覚化・直面化をし、深い自己洞察の上で、理解・認知しなければならない。

 (たとえば、自分の病について、その原因・理由をはじめとする本質を、理解・認知できるまで徹底的に追求・把握する、学習・その他の作業に取り組むこと)

 また、そうした自助努力に取り組み、専念するための環境・条件作りの一環として、何よりもまずはじめに、回復・成長を阻害するものを、身のまわりから遠ざけ、生活スタイルを変更・改善〜一新することも、必須であり、必ず行わなければならない。

 回復・成長を阻害するだけでなく、認知・思考や発言・行動の歪みを生成・助長し、それらを前提に成立してきた、これまでの生活環境・生活スタイルを守り、しがみついたままで、自分を変えられるわけがない。

 そうした過程を経ずに、自分を変えること〜回復・成長することが、「自分はできる」「自分はできた」(あるいは、それ以前のレベルとして、「自分には問題はない」「自分は大丈夫だ」)などという、大きな勘違い・錯誤、身のほど知らずな過大評価をもたらす過信・妄信は、単なる妄想の類でしかなく、それ自体がすでに、認知・思考の歪みであり、無知の表れにすぎない。

 歪んだ自己愛に支配されて、自分の愚かさを自覚すること・省みることさえできず、誇大感・全能感に溺れ、虚栄心に汲々としているかぎり、覚醒も救いもない。






回復・成長へのメルクマール(メモ2)

しゃあ <メール送信>   2004/3/15 (月)   No.1083693747



 CPTSDは、主に、親をはじめとする家族・親族から受けた幼少期の虐待(過保護・過干渉による「やさしい暴力」「見えない虐待」や、さまざまな精神的・身体的暴力行為の目撃・遭遇体験などを含む)による長期反復性外傷を発症原因としており、その後遺症である側面が強い。

 そして、子ども虐待やCPTSDは、子ども虐待の犠牲者であるCPTSD者が、新たな子どもへの虐待者となることによって、世代間連鎖し、再生産される。

 子どもを虐待から守り、子ども虐待の発生やCPTSDの発症を未然に防ぐとともに、それらの世代間連鎖を断ち切り、再生産させない、新たな虐待者/CPTSD者を生み出さない・生み出させないための最大の予防策は、CPTSD者(特に、人格障害傾向の強い人物)に、子どもを作らせない・育てさせないことである。(予防に勝る治療なしということ)

 これが、子ども虐待〜CPTSD予防への社会的対応・対処として、もっとも具体的かつ有効な、最善の対策〜手段・方法であり、早急に実施する必要がある火急の課題であることは、明白で疑う余地がない。

 ひるがえって、CPTSD者にとって、恋愛や結婚、出産などは、現実逃避行動でしかなく(ボランティア活動なども同様)、思考停止を促進し、回避・否認を強化し、自覚化・直面化の機会をさらに遠ざけ、失わせるだけである。

 恋人や配偶者、子どもへの依存性を高め、関係嗜癖を増悪させるなど、病の固定化・悪化をもたらすものでしかない。

 (未回復者・回復途上者にとって、恋愛や結婚、出産などは、百害あって一利なしであり、絶対禁止である。回復・成長を妨げ、病の固定化・悪化をもたらすとともに、他者や社会にも悪影響を及ぼす禁忌・愚行でしかない)

 CPTSD者としての自覚がある人間は、自らの回復・成長のためにも、その理と事実を理解・受容し、疑問の余地なき当然の選択として、自らそうした行為を避ける意志と覚悟を持たなければならない。







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