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あなたが、ここにいてほしい
 
 佐上 令
 
 
 ぼくは、たとえば、次のように考えている。
 「運命」とは、からめとられるものでも、あるいは、従うものでもないのではないか。そのような受け身の向き合い方では済まされない、人間の存在そのものに、もっとダイナミックに作用していくものである、と。(かといって、「運命とは、自分の力で切り開くものだ」などと、おめでたいことを言うつもりはないが‥‥‥)
 「運命」とは、無数の選択肢の中から、ある意味、あるいは無意味によって、自律的・他律的に決定されていく、一つの偶発的結果に過ぎない。そして、それはまた、そうした偶然の産物であると同時に、決定的な、他に選択肢のないような必然性を持って現象するのである。
 この振幅の幅をどうとらえるかで、その人は、決定論者になったり、反決定論者になったりするのかもしれない。
 
 どこか、もっと深いところ――それがどこなのか、ぼくにはわからないが――で失った何かが、人をして根底的に老いさせるのだ。それは、肉体的な「老い」ではなく、もっと精神的な、自己の存在そのもの、その根幹部分に達する、とり返しのつかない疲弊や損傷による「老い」である。
 それを「絶望」と呼ぶのはたやすいのだが、しかし、その言葉だけでは語り得ない、本質を語り尽くせない何かがそこにあるのも、また確かである。そして、はたしてそれは、治癒可能なのだろうか。また、治癒すべき「病気」、あるいは「障害」なのだろうか。
 「絶望は死に至る病である」などと言う前に、人間の存在そのものが、「病」と表裏一体としてあり、不可分であるかもしれないのである。
 
 往々にして人は、自己を妄信し、他者に対しては猜疑心にまみれがちである。また、肥大化した自我と過剰な自尊心から――あるいは、それらの喪失感から――、自己否定に陥り、存在の不安に苛まれている。
 それらは、自己・他者不信と一体としてあり、その裏返しに過ぎない。内的には、精神的・肉体的自傷への耽溺に陥り、外的には、他者――そして、その他者が作り上げた社会――に対する怒りと憎悪を内攻させ、私怨(ルサンチマン)を蓄積していくばかりであろう。(他者が作り上げた社会=自己とは「無関係」に既存し、自己の存在の承認と安全の保障が、自明ではない社会)
 現在進行形の自己に何より必要なのは、まず、自分を許すことである。そして、自分を信じることである。しかし、覚醒途上の人間にとって、そうした意識の獲得は、容易なことではない。
 特に、向上心や自己批評性を持たない、現状肯定・追認型の人々にとって、それは、はてしなく遠く困難な作業である。何故なら彼らは、許すこととも、信じることとも、もともと無縁の存在であるからだ。
 彼らは、何もわからぬまま、そして、自分が何もわかっていないことにすら気づかぬまま、死んでいくだけである。それは、ある意味で、幸福な人生と言えるのかもしれないが‥‥‥。(ここでは、彼らのことは問題にしない)
 
 かつて、日本の広告業界―TV・CFの世界において、華やかな名声と成功を欲しいままにしながら、そのさなかで、「嘘をついてもばれるものです」と書き遺して、首吊り自殺したCFディレクターがいた。
 他者を欺くことは、さして難しいことではないだろうが、自己をだまし続けることなどは、到底不可能である。
 自己をだまし切れず、しかもなお、そうした現実を直視しようとしない人々は、自己の観念を倒錯させていき、さらなる地獄へ堕ちていくだけである。その行き着く先は、醜く歪んだ自己欺瞞と合理化、そして、自家撞着の世界に過ぎない。
 かつてもいまも、求道を志した者たちの多くが、道なかばで挫折し、失意のなかで死に、あるいは、自らの弱さゆえ転向していく。
 
 人が――すべての人間がそうだとは言わない――、自己にとって必要な、ある特定の他者、「ここにいてほしい」と願わずにはいられない人――その特定に、客観的に語りうる条件があるわけではないのだろうが、しかしまた、そこに何かしら固有の規範があるような気もしている――に、自己の存在を投機していかざるを得ないのは何故だろうか。
 そこには、人の「弱さ」という一言ではかたずけられない何か、ある動かし難い衝動が内包されており、自己の存在を賭けたやむにやまれぬ行動として、他者への自己投機を行っていくのだ。また、そうでなければ、その行為に何の値打ちがあるというのだろうか。(現代社会の問題の一つは、そうした自己投機すら、なしうる意志やエネルギーを、人が喪失していることである)
 ぼくたちは、時間との競争にきわどく差をつけながら、彼/彼女を探し、追いかけ続けるしかないのだろうか。答えは、まだ見つかっていない。
 しかも、その行き着くところは、けっしてぼくたち一人ひとりにとって、幸福をもたらすものでは必ずしもなく――少なくとも、世俗的な「幸福」と称されるものからは、はてしなく遠ざかっていく行為であることは間違いない――、そこにあるのは、決定的な自己解体であり、何もない荒野であるかもしれないのである。
 それこそが「幸福」である、と言うことも可能ではある。また、他者との霊的・全的な交感関係の獲得は、人の生になにがしかの意味を付与するものであり、自己の生を問い直し、立て直す重要な契機ともなりうることは、確かなことであるが‥‥‥。
 
 人を変えることはできないが、その内側に眠っているものを目覚めさせ、引き出すことはできるのではないだろうか。言いかえれば、もとから「ないもの」を彼/彼女の中に形成することは、一般的に他者=第三者には困難であるが――もしかしたら不可能なのかもしれない――、すでに彼/彼女の中に「あるもの」で、まだ形をなしていないものを顕在化させることは、けっして不可能ではない。
 人がその内に秘めている――であろう――「よき」観念を発現・活性化させ、その観念に依拠した意識構造の構築と思想の獲得、行動を求めるのならば、そのような「示唆」や「働きかけ」を行っていくしかない。そして、それは、相手が置かれている現時点での個的状況・制約に合わせた――また、こちら側に可能な――かたちで、より多くの人々に向かって試みていくことが、重要であり必要であろう。
 
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』より)。一つ間違えば青くさく陳腐に響きかねない、この言葉を、ぼくは、自己の衰弱と対峙しながら、言い切る覚悟を持ちたいと思う。
 そのためには何よりも、自己の中に、そうした思想を語りうる主体を形成することが必要である。
 同時に、その「幸福」の内実を問うことも、不可欠であろう。
 「地獄への道は、無数の善意で敷き詰められている」。カール・マルクスが、その著書『資本論』の中に引用したことで有名な、ドイツのことわざである。
 浅薄な善意=偽善に足もとをすくわれることなく、道を誤らないためには、ぼくたち一人ひとりが世界の真実を直観し、きっちり絶望していなければならない。
 
 
  きみとぼくは同じ視線で結ばれた
  ともだちというやさしい放浪者だった
  きみと二人して
  夜明けの街の荒々しい空気に酔いしれて
  二人はさまよった
  いつかきみとぼくは同じ視線で結ばれた
  ともだちというやさしい放浪者だった
  さよならぼくのともだち
(森田童子『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』より)  
 
 
(1994.12.17.) 
 
 
 
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