| ロックとは何か? |
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佐上 令 |
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歴史的に見れば、ロック音楽が、ア・プリオリにロック音楽たり得たのは、1960年代後半のほんの数年間に過ぎない。 その後は、一部の例外を除いて、ロック音楽が、ひたすら堕落・退廃し、無効化していく過程であった。 それはまた、先進資本主義各国で呼応しあうかのように、同時発生した世界的な学生運動の生起・隆盛に象徴される政治変革運動、そして、その失速と同期している。 (ロック音楽と政治運動は、不可分な相関関係のもとにある) ロックとは、ポップ音楽の鬼子として生まれ落ちた、変革のための音楽であり、そうした志向を持たない音楽は、それがたとえ、どれほどロック的アティチュード/コンテキストを利用していようが、断じてロックではない、と断言する。 言わずもがなだが、現在J-POPと称されるジャンルに分類される音楽の中に、ロックは存在しない。ビジネス上の商標として以外は。 現在、メジャーな音楽マーケットにおいて存在し流通している、「ロック」という商標をつけた音楽は、すべて体制に組み込まれた保守・反動的なものであり、もはやロックではない。 けっきょくのところ、ロック音楽は、先進国が高度資本主義化していく過程で生まれる、徒花のようなものだったとも言えるだろう。 高度資本主義化が進行し、社会が成熟していく過程で、当然の帰結として、さまざまな軋轢が、その社会の内部に生じる。 ロック音楽は、その軋轢の様相・実相や、そこに生じる葛藤を表現したものだ。 したがって、その軋轢が、新たな社会構造に吸収され、収束してしまえば、ロック音楽も消失していくのは不可避であり、必然なのだ。 現在、たとえば日本において、存在しうるロック音楽(正確には、ロック音楽の終焉以降、その遺伝子を引き継ぐ音楽)とは、変革への想念や思想を内面化した、きわめてパーソナルな表現としてしか成立しない、ということになるだろう。 ちなみに、ロックとロックン・ロールを混同する人が多くて、閉口する。 この二つは、音楽的ルーツこそ同根であるが、表現の本質・内実は、まったく異質で別種のものだ。誤解なきよう。 ロックン・ロールは、ブラック・コミュニティ内で、セックスを意味する隠語である。 「ロックン・ロールは、下半身に作用する。しかし、ロックは、頭脳に作用する音楽である」「我々の音楽は楽しむためのものではない。我々は知的なバンドなのだ」。―――と言ったのは、たしか、キング・クリムゾンのギタリスト、ロバート・フリップだったと思う。 ロックは、熱狂ではなく、鎮静を。陶酔ではなく、覚醒を。快楽ではなく、禁欲を。現実逃避ではなく、現実(自他および世界)の変革を志し、促す音楽である。 そして、知覚を拡大し、思惟と現実認識を深めるための装置である。 「わかりあう」ではなく、「わかりあえない」ことこそを確認するものが、ロック音楽なのだ。 最後に、アジテートしておくならば―――。 ロックとは、虚無と絶望を表現する音楽であり、世界の諸矛盾と貧困を告発するものである。 また、サウンドのテンション。そして、精神のテンション。どちらが欠けても、ロックの名には値しない。 黎明と共に 俺たちは、 燃え上がる忍耐で武装して、 輝く街々へ入っていこう。 |
| (アルチュール・ランボオ『地獄の季節』より) |
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□付記/オルタナティブ・ロックについて 「オルタナティブ」は、1970年代以降、世界中で顕在化した、さまざまな変革運動全般を象徴的に表す言葉である。 たとえば、第三世界を中心に生起した、特定のイデオロギーや陣営に組みしない、新しい多様な形での解放闘争/民衆運動を指し示す合言葉、スローガン=標語でもある。 (現在は、そうした運動も失速し、終焉を迎えつつあるが‥‥‥) また、広義には、既存の体制・制度・価値・思想 etc. に対抗・対峙し、代替する、新しい思想や生活様式、運動全般を指す。 オルタナティブ・ロックとは、そうした世界史的な流れの中で、誕生した音楽である。 (そして、現在は、これまた消失しつつある) 音楽史的に言えば、パンク・ロック以降のロック音楽が、よりコマーシャル/エンターテイメントなニュー・ウェーブとして、さらに変質していく中で、分化し顕在化した、「もう一つの」潮流を指している。 それは、総じて前衛的なサウンドを持ち、よりアンチ・コマーシャル、よりアンチ・エンターテイメントなものである。 |
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(2000.3.20.) |
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