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その次へ‥‥
 
 佐上 令
 
 
 ときおり、思い出したように森田童子を聴く。それはなかば、習慣のようなものだ。
 今年の夏も、久しぶりに森田童子のアルバムをとり出して聴いてみた。それらはいまでも、いろいろな想いを寄せながら聴くことができて、まったく色褪せていない(ぼくにとって、その声と歌詩が森田童子のすべてである)。そして、そのことはまた、ある部分では遠く、ある部分ではまったくかわっていない、十代の自分といまの自分との距離を、浮かび上がらせずにはおかない。
 ぼくは二十歳だった。それが人生でいちばん美しい年齢だなどと、誰にも言わせない。―――と書いたのは、ポール・ニザンだった(『アデン・アラビア』より)。あれから、もうずいぶん、長い時間(とき)が過ぎた。
 
 この数年の間で、急速に生命力が減衰してしまったと感じている。もっとも、もとより希薄であることは確かなのだが‥‥‥。がむしゃらでやみくもな無謀さとか行動力とか、そういった具体的な目に見えるような形のものではなく、どこかもっと深いところで、何かを失ったような気がしている。
 もしかしたら、自分の内部のある虚弱さといったものに、徐々に蝕まれていっているのかもしれない。そして、それはたぶん、たとえばニヒリズムや人間不信に対する抵抗力の低下といった形で現れ、意識の能動性やポジティヴさを疎外しているのだろう。
 自己のニヒリズムを顕在化し、さらに、向き合い対峙し続けるのは、大変な痛苦を伴い、とてつもないエネルギーを要する。どうやら、そうしたエネルギーが枯渇しているようである。(ちなみに、ぼくが自己のニヒリズムを自覚したのは、五〜六歳の頃だ。「よくぞ、ここまで生きのびたな」という思いが、正直な気持ちである)
 
 ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車
(福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』より)  
 
 今年の夏は、この歌が、頭のなかで鳴り続けていた。
 
 しかし、それでもなお、ぼくは、人間には、自己の内部のニヒリズムから目をそらさず、凝視し、対峙し続けることが必要だと思っている。そこからしか、真の希望は生まれず、自らが獲得することもできない、と信じるからである。
 徹底した自己凝視―――自己を対象化し、不断の自己批評を自らに課すこと。そして、「正義」と呼びうるものの現象化を目指すこと。これらの実践なくして、世界や生の真実をつかみとることなど、到底おぼつかないのではないだろうか。(ただし、もちろんそれらを、自らが求めるならの話だが‥‥‥)
 それらの過程を総称して、ぼくはディシプリン(discipline=修練)と呼んでいるのだが、もし、そのような過程を経ないところで生の理想や希望を語りうるとしたら、それは無知によるものか、あるいは相当の自己欺瞞であり、観念の倒錯に過ぎない。
 より高みを目指して生きる、といった理想を失い、あるいは、はじめから持つことなく生きるなど、あまりにも貧困で退廃した生である。その志向は、一人ひとりの人間の、どうしようもない愚劣さとともにあるであろう崇高さの発現を希求し、その可能性を信頼すること、と言いかえてもいいだろう。
 ならば、他者とのコミュニケーションに向かって、自己解体していくしかない。
 
 働かなければ食へないなどとそんなことばかり言つてゐる石頭があつたら、その男の前で「それはこのことか」と餓死をしてしまつてみせることもよいではないか。(『無形国へ』より)
 そう言い切ってみせ、自己の無為のうちに生きた尾形亀之助は、その詩集『障子のある家』の自序に、こう記している。
 
  何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。
  それからその次へ。
 
 (なお、尾形は、一九四二年の冬、喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱のため、誰にもみとられず、息を引きとった。享年四一歳)
 
 
(1994.11.5.) 
 
 
 
『蒼穹』 (C) SLAN